遅い夏が戻り、温度も上がった

もうこの10日ほどだろうか、遅い夏が戻り晴れ間が続き温度も上がって、だから雨らしい雨も降らず庭の草木にもそろそろ湿り気が欲しいところだったのは。 けれど今日やっと雨が降った。 しかしそういう風に降るとえてして「降ればどしゃぶり」というようなこともあって今日もそれだったのだけれどそれでも一時のことだった。 

四時前に仕事場から出て別の棟に移動するときにバケツをひっくり返したとよくいうそんなことが起こり皆表から蜘蛛の子を散らしたというように消えていた。 自分はいつも安物の傘を部屋の中においてありあんまり使う機会もないけれど今日は久しぶりにそんな土砂降りだからここぞとそれを使い、叩きつける雨の跳ね上がり、跳ね返りをうけてズボンの裾、肩口が少々濡れるようなこともあったけれど別棟の部屋に入ってその隅に傘を広げて置いておいたものを一時間ほどして自分の仕事場に戻るのに建物の外に出てみるともうそれも止んでいて乾いた傘を使う機会もなくそのまま自転車のサドルの湿り気をハンカチで拭ってから晴れ間はないけれど雨の上がった町を家路についた。 

裏庭の物置に自転車を納め芝生をみるとこの雨でこれからまだ少し背丈が伸びそうなのでこの分では冬に草木の成長が止まるまで芝生はまだ2回ぐらいは刈らなければならないと思った。 気温が年平均の18℃ほどに戻って通常の鬱陶しいオランダの秋に戻りそうなのだが、けれど今のところこの雨は歓迎だ。 埃で汚れていた車の外周りが今日の何回かのシャワーで洗われたほどだった。 通常オランダの秋は湿っていて降ったり止んだりの長い雨が続き、自分が育った大阪南部の秋から冬にかけての晴れ間の多い清清しく透明な気候とはまるで違うからここのこんな秋にはいつまで経っても慣れない。  

そうはいってもここに住んでいるのだから庭の草葉で湿気をはじくような水玉を見て少しは景気付けをしながら裏口から台所に入り冷えたビールを冷蔵庫から掴んで一気に半分ほど飲んでもまだ寒いとは思わないのは秋もまだそう深くは無い証拠だとこれからの長い秋から冬にかけての心準備をする。

秋の長雨、と書いた。 それにつけても長雨となると小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」が何時も思い起こされ、これは春の長雨にかかっていると解説されているのは承知だが自分には秋の長雨に思えるのだ。 それは色香の衰えた小町のことを春に掛けるのではまだ彼女の色香が衰えるのに充分ではなく、春が何度も何度も過ぎ秋のこれからの時期に彼女が人生の秋から冬にかけてする回顧であるとすると一層の凄みがでて、それは平安時代の絵巻物に描かれた小野小町が骨まで朽ち果てるまでの姿が思い起こされ、還暦をとっくに越えた小町の若き日を想う哀れがいっそう骨身に沁みるように感じるからなのだ。 

それに比べ花の色も容もない自分となるとそんな雨を眺めていたらそれは「下手な考え休むに似たり」というような諺に収束するようでもあって、だから頭を振り振りビールの小瓶を指で摘んで重い体を屋根裏部屋に押し上げる。

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